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(首都大学東京オープンユニバーシティ「スペイン語社会文化事情講座」2009/1/31講義ノートより)
カトリックの規律と社会
伝統的なスペイン文化を一言でいえば、キリスト教のカトリック(旧教)の影響を受けた文化といえよう。というのも、直接宗教文化に関係がないようにみえても、カトリック的規律、階級関係が一般の社会に浸透しており、その意味でカトリック主義とは無縁ではないからである(『現代スペイン読本』2008の拙稿を参照のこと)。
1939年にスペイン内戦が終結し、フランコ将軍が勝利し、その後約40年間はかれの独裁制が続く。フランコ主義はカトリック教会を擁護する右派体制であった。独裁制というに相応しい、いわゆる権威主義体制を確立したのである。したがって、政治的自由や言論の自由などきわめて制限されていた。この体制は第二次大戦でいわゆるファシズム体制とされていたドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニとの関係が密であった。これらふたつの体制はやがて崩壊するが、フランコ体制は彼がなくなる1975年まで続いたのであった。『サルバドールの朝』(06年)という映画ではフランコ末期の脆弱体制のなかで一人の若者がテロ行為に身を投じ、最後は不当な裁判で死刑に処されるという悲話が描かれている。
さて、フランコ派に殺されたのはこの若者だけではない。かの有名なガルシア・ロルカもスペイン内戦中に30代の若さで殺されている。彼の作品のなかに『ベルナルダ・アルバの家』という作品があるが、これはかつて映画化された(87年)。父親の喪に服すために5人の若き娘たちは母の言いつけにしたがって、外出も制限され、あこがれの男性とも会えないでいる。そして黒っぽい地味な服を着て暗い家の中で一日中編み物をしている。炊事、洗たくは女中がやる。要することに、ほかにやることがなく退屈なのである。ロルカは、女性の性や自由を抑圧するカトリックの慣習や規律主義を静かに批判する。最後には家族に気が狂い出す者も登場する。自分の愛する男性が夜こっそりと会いに来ていたところを母親に見つかり銃で追い払われた。そして、母親はあとを追ってその彼を銃で殺したから二度とお前の前には現れないと娘に嘘をつく。これを本当だと思い込んだ娘は姉の結婚衣装部屋で首をくくって自殺する。まるでロミオとジュリエットを想起させるストーリーであるが、昔の典型的なスペイン社会の厳しい伝統的規律のなかで、いかに人々が、とりわけ女性が抑圧されていたのかを考えさせる適切な題材となっている。
スペイン内戦
他方、スペイン内戦(1936〜39年)がスペインの歴史や政治イデオロギーのうえで重要な歴史的事件であると同時に、その後のスペイン社会に与えた後遺症が大きかったので、映画のなかでも内戦はかつてのスペイン映画でよく扱われるテーマであった。内戦は3年で終わったが、フランコを中心とする右派が勝利し、共和主義者、共産主義者、無政府主義者などをひとまとめに左翼とされたが、これが敗北した。そして、内戦で負けたものは職を奪われ、なかには亡命を余儀なくされたものも多かった。亡命先として、メキシコに1万くらいの亡命者が移住したようである(フランコ体制の終結までスペインとメキシコは国交がなかった)。フランコ体制下で不当な逮捕の末、死刑判決を受けた者が一説には5万もいるという。内戦後のフランコ体制下のスペイン社会を描いた作品として、わが国には80年代後半にはいってきたものとして、ビクトル・エリセ監督の『みつばちのささやき』(73年)や10年後の『エル・スール』(83年)があるが、これらは内戦後の大人たちの苦悩を子供の視点から描いているという点で共通している。
またアグスティン・ヤネス監督の『死んだら私のことなんか話さない』(95年)のフリアは内戦で左翼だったため、逮捕、拷問にかけられ、その後職も奪われた。『エル・スール』の母親も元教師であったが、戦後は家庭にはいっている。このように社会から疎外され職場を奪われ、また夫は処刑されたと思われるフリアは知的で堅実で我慢強い女性である。自宅で子供たちを指導して小遣いをかせいでいる。一方、息子はもともと闘牛士で政治には無関心だが、いわゆるスペインの伝統性を代表する競技である闘牛に命をかけてきたという点で、母とは相反する立場であった。しかし、その息子も闘牛場での事故で植物人間になっている。他方、グロリアはどこにもいるようなごく普通の、あまり教養は高くないが、気立てのいい、明るいテキパキとした女性であった。しかし、そんな夫をまえに、元来の明るさを失い、ひたすら夫にかわって家のローンの返済で苦しんでいる。そして、フリアと違って、冷静に堅実に物事を考えないために、短期間で楽に稼ごうとあえて危険を冒すのだ。フリアのような地道に努力するタイプではない。娼婦や強盗など次から次へと企て失敗し、あげくの果てにはアルコール依存症になっている。
しかし、そのグロリアがやがて苦しみから「解放」されるときが訪れる。それは高校卒の資格試験の勉強をして、無事にそれにパスしたためだ。学歴や資格をとることで社会的向上のための最初の第一歩を踏んだからだ。これもすべてフリアの指示に従ったためであった。フリアは教育(学歴)と自信が最後は自分を救ってくれると信じていたのである。しかし、そんなフリアにもある決断があった。伝統に固執する闘牛士であり現在は植物人間である息子(グロリアの夫)と、革命分子として反政府運動に没頭していた若い頃ほど今の世のなかに「夢」をもっていない母フリアは、新しい時代を生きていかなければならないグロリアの幸せを願って、家族という伝統的束縛から彼女を「解放」するために、自ら死を選ぶのであった。
性と暴力とドラッグ
最近のスペイン語圏の映画の特徴は表題のような要素が入っている場合が多い。先に挙げた『死んだら私のことなんか話さない』にもこの要素が含まれている。ペドロ・アルモドバルの『グロリアの憂鬱』(84年)の主婦グロリアも冷めたきった夫婦関係に嫌気がさして、見知らぬ男性との一時の快楽を楽しみ、また精神安定剤の常用者になっている。ただアルモドバルはこれらの社会的問題がごく一般の家庭に浸透してきて、家族関係までおかしくするような状況を生んでいることを、ユーモラスを交えて描いているのが特徴である。とにかく、ここに登場する人物はみんな普通ではないのだ。また『死んでしまったら…』のグロリア同様、このグロリアもごく普通の女性であるがその苦境を何とか自分の力で乗り越えようとするラテン系女性らしいたくましさをもっている。マンションの隣に住む売春婦と仲はいいが決して自分はその仕事を選ばないという強い信念というものがある。また夫との口論の末、夫を殺しても警察の前で無関係を装うほどの大胆さももっている。
日曜日の昼間の自宅マンションでのマリファナ・パーティーみたいな話がメキシコ映画の『ダック・シーズン』(04年)である。4人の全く付き合いのない人間(うちプラマとモコは友人同士)があるマンションの一室の日曜日の午後、ふとしたことから出会うのだが、4人のあいだにはあまり会話らしい会話がない。皮肉にも4人を結び付けてくれたのがマリファナ入りのケーキであった。まさに現代人のコミュニケーションスタイルを象徴しているようだ。そして各人がそれぞれいろいろな悩みや思いをもって生きていることが少しずつわかってくるのだが、最終的には相互の対話を通じて各人が多少の希望をもって何とか「満足しながら」それぞれ家路に向かうのであった。
新しい時代のマチスモ
他方、強くたくましいラテン系女性にたいして、男性はどうか。伝統的には「たくましさ」「勇敢さ」「経済的余裕」「人脈」「権力」などを有する、まさに一言でいえば肉体的、物質的、精神的に「強い」男が真の男性として認められ、この「男らしさ」(マチスモ)が男性性のすべてであった。しかし、現代社会の自由の風潮のなかで、わが国同様、男性が中性化し男性性も多様化してきている。反面、極度に男性性を強調しすぎるのも現代の特徴である。『エル・パトレイロ』(91年)でメキシコ北部のハイウェイ・パトロール隊のペドロは男性性を前面に出している警察という組織に属しているものの、個人的にはきわめて心の優しい、妻に従順な男性である。結婚後、妻の態度が横暴になり、そのいやしをもとめて夜の酒場に行くが、そこでマリベルと出会う。妻は警察官なら賄賂でも巻き上げて来いと無理な要求をペドロに出す。忠実にお金をもって帰ってきたときは妻の機嫌がよい。マリベルもまたペドロに対して、同居して養ってくれないか、そうでなければ養育費を工面してくれと厚かましい要望を出してくる。ペドロはやさし過ぎて、悪くいえば、優柔不断であるために、両方の女性の機嫌を取り続けなければならず、そのことで自己嫌悪に陥っているのである。まさにマチスモに反する現代的な男性像である。その是非は別として、ラテン系社会のステレオタイプの男性像からは完全に逸脱している。これが映画の主人公になっていることが新しい動向として注目される。
さらに同性間の結婚が05年に認められたスペインでは、同性愛や同性婚は自由の象徴のひとつとなっている。アカデミー最優秀女優賞と脚本賞を受賞したアルモドバルの『オール・アバウト・マイ・マザー』(99年)では、女性を愛する同性愛者の女優ウマ、性転換して男性から女性になったアグラードとロラが登場する。ロラはバイセクシャルで、それをおそらく知らずにマヌエラはロラ(元の名前はエステバン)と結婚する。しかし、やがて離婚。ロラは知らなかったが、彼のあいだには一人の息子が生まれた。マヌエラはその子に夫と同じエステバンという名前をつける。しかし、息子エステバンは雨の日車にひかれて死亡。悲しみのなかマヌエラは元夫を探しにバルセロナに向かう。そこでウマやアグラードに出会う。エルサルバドルへの支援事業をしようとしているシスターのロサにも出会うが、実は元夫のロラと性的関係をもっていた。ロサの命と引き換えに男の子が生まれるが、その子にもエステバンという名前をつける。エイズの末期にあったロラにロサの葬式で再会する。マヌエラの母性が画面を通じて伝わってくる。ロラがまるで子供のようにみえる。男性が母性を求めていること場合はこんなものかもしれない。母的な愛を感じることで「満足して」死を受けいれようとするロラの姿がうかがえる。その一方でマヌエラには過去に与えられた苦しみのすべてを水に流し、相手を許して受け入れるというマリア的な優しさが描写されているように思える。
生きるとは
生きるということは幸せで「満足して」生活することである。生きるために、家族、友人、その他の人間関係、そして経済的基盤、健康等が幸せで満足な状態でなければならない。いずれかが著しく怠れば、それを全うすることはできないであろう。しかし、世の中にはそれができない人は少なくないのである。だが、そのような場合でも前向きに生きようとする意欲があれば、まだ救いであろう。またその救いは周りの人間から教えられる場合もあろう。しかし、それがまったくなくなった場合、人間は命を自らの手で絶つことがあるかもしれない。そこまでいかなくても、金銭的な苦労は人間の理性を狂わせることになろう。明日の夢や希望を失ったものはもはや失うもの、守るものはないと自己嫌悪に陥り、感情だけで短絡的で無謀な行動をとるようになる。昨今、大幅なリストラ政策で失業者が急増してきている。これは世界的な現象であり、スペイン語圏でも同様である。
『今夜、列車は走る』(04年)は記憶が定かではないが、昨年(08年)の今頃日本で上映された映画である。渋谷のある映画館のレイトショーでやっていた。私はこれを映画館で観たとき、映画の内容が現在の日本社会の状況とあまりにもかけ離れすぎているので、映画のメッセージ性が日本の一般観客に理解されにくいのではないかと懸念していたが、それから数か月後、アメリカで金融パニックが起き、これが不況を起こし、世界に波及している。日本も深刻なリストラの問題が日夜ニュースで大々的に取り上げられている。
1990年代、アルゼンチンの当時のメネム政権のときに経済の自由化政策を実施し、多くの国営企業の民営化が強行された。この映画はこれによって行き場を失った6万人の鉄道員の実話をもとに作られた物語である。再就職活動をするが、なかなか仕事がみつからない。仕事を失うことで、元の仕事仲間との関係の疎遠、家族関係の不和、そしてこれが近年のラテンアメリカ映画でよく取り上げられるテーマであるが「男性性の喪失」などが問題になってくるのである。なかには犯罪に手を染めるものも出てくる。そんな家族の大黒柱的存在でなければならない夫や父親がその威厳もなくその気力も失っているのである。反マチスモ的である。精神的に異常な部分も見られるのである。それを心配しているのは妻であり子供なのである。実は大人よりも子供の方が冷静にこれを見ており、自分たちができることは何かないかと大人を気遣っているのである。今一度、気力を失っている男性にもう一度「強い」男性になってもらいたいという願いが映画の主題に込められている。
映画や小説は現実を土台に脚本を書いているにしてもフィクッションの要素が含まれている。この映画の場合は、最後に労働者に勇気が与える場面として、廃止された鉄道が今一度みんなの前を走るというシーンがある。なぜか妙に感動がこみ上げてくる場面である。でも冷静に考えると、これはフィクションである。でもこれでいいのだ。これで。「夢」はフィクションであるが、これによって勇気が与えられ、生きようとする活力がうまれ、真の「男性性」(夫として、父親として、そして一人の立派な男性としてまわりから認められる男性性)が復活する起爆剤になるなら、それは映画や小説の社会的貢献として十二分に評価できよう。少なくとも、映画が、個々人に冷静さを取りもどし苦難に対して黙々と前向きに歩んでいく気力と勇気を与えるきっかけとなるのであれば、それは「夢」であってもいいのだ。あとそれを現実にかえられるかどうかは、その人間の努力の成果を社会や周りの人間に認めさせることができるかどうかに関わってくるだろう。そのためにはつねに自分が夢や自信を持たなければならない。世の中、そんな捨てたものではないと思う。(了)
引用した映画作品リスト
『サルバドールの朝』(06年)スペイン/ マヌエル・ウエルガ監督
『ベルナルダ・アルバの家』(87年)スペイン/ マリオ・カムス監督
『みつばちのささやき』(73年)スペイン/ ビクトル・エリセ監督
『エル・スール』(83年)スペイン/ ビクトル・エリッセ監督
『死んだら私のことなんか話さない』(95年)スペイン/ アグスティン・ヤネス監督
『グロリアの憂鬱』(84年) スペイン/ ペドロ・アルモドバル監督
『ダック・シーズン』(04年)メキシコ/ フェルナンド・エインビッケ監督
『エル・パトレイロ』(91年)メキシコ/ アレックス・コックス監督
『オール・アバウト・マイ・マザー』(99年)スペイン/ ペドロ・アルモドバル監督
『今夜、列車は走る』(04年)アルゼンチン/ ニコラス・トゥオッツォ監督
【2009年2月15日脱稿/2月17日アップ】
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