京都市右京区太秦、太秦映画村の前の渡辺病院で生まれる。幼稚園まで京都市太秦に、小学校から大阪・枚方に住む。
中学1年のときは、英語よりも数学の方が得意だったが、塾の英語の先生の影響で、英語が好きになり、やがて一番の得意科目になる。
中学1年からNHKラジオ「基礎英語」などの語学講座を聞き始める。
小島善郎先生の「基礎英語」、安田一郎先生の「続基礎英語」、東後勝明先生の「英会話」などお世話になった。
高校に入って、以前から気になっていたスペイン語にトライする。でも母は確か、英語とごちゃ混ぜになるからといって、スペイン語講座のテキストを買ってくれなかったような記憶がある。
高校3年になって我慢できなくなって、テレビとラジオのスペイン語講座のテキストを買ってはじめる。「テレビ・スペイン語講座」(当時は今と名前が違っていた)はぎりぎり寿里順平先生(長年担当していた早稲田の先生、独学でスペイン語を勉強したとか)の担当だったと思うが、すぐに東谷穎人先生にかわった。
ラジオ講座は入門編が吉田秀太郎先生、応用編は小林一宏先生だったと思う。
とにかくスペイン語の音の美しさにひかれ、この美しい言葉を何とかものにしようと思った。
でも本音といえば、この頃から大学教授を目指すことを考えていたのだと思う。テレビやラジオの先生を見て大学教授という職業にあこがれていたのだ。だから大学進学のときにはみんなは就職のことを考えて法学部や経済学部に進学したものだが、私は迷わず、スペイン語専門課程を選んだ。未だ大学教授への道はほど遠いが、一応そのレールにはかろうじて乗っているのではないかと思う。否、そうあることを願いたい。
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自分の18歳から20歳くらいまでは人生のブラックホール?で、屈折、屈折で、苦しんだ(その後も屈折は続くのだが…そして今も?)。
このHPを作成してくれている畏友、安田守彦君(君なんて呼んでスミマセン、安田さんは僕より1つか2つ上だったと思いますが、昔同じ釜の飯を食った好で勘弁してください)はすべてわかっていると思うけど、本当にこの時期いろいろ僕の相談に乗ってくれ、だいぶ迷惑をかけたと思う。本当にお世話になりました。
さて、大学はスペイン語学科に入学したが、当時の恩師とは今でも懇意にしていただいている。大学は外国語学部だったので、やはり語学の授業が圧倒的に多かった。すでにスペイン語は独学で相当勉強していたので、入学当初は知っていることばかりで簡単だった。しかし、次第に語学そのものから、スペインやラテンアメリカの歴史へ興味の対象が変わっていった。具体的に何のテーマを研究するかは定かではなかったが、漠然とスペイン史でもやろうと考えていた。
当時、小林一宏先生のレコンキスタに関するスペイン語講座応用編や同先生がNHKラジオの別番組でレコンキスタ(711年にイベリア半島がイスラムに支配されてから1492年に追い出すまでの一連の国土回復戦争のことをいう)の説明をされていたのを聞いてスペイン史に興味を持ち始めていた。でも卒論ではラテンアメリカ文学について書いた。
イスパニア語の中高の教員免許取得のために言語か文学のゼミを取らなければならなかったので、古家久世先生のゼミでキューバ文学のカルペンティエールについて書いた。
今読むとはずかしいほどお粗末な内容だ。というのもカストロ万歳、社会主義革命万歳みたいなことを書いているからだ。でも優しい先生はこの論文に高得点をつけてくれた。(ありがとうございました)
断っておくがカストロやゲバラの生き方は一本筋が通っていてポリシーを感じるし、その意味において今でも好感をもっている。多くの国で社会主義に傾斜する動きが出てきて真剣に格差社会を是正しようと、それに試行錯誤し、武器をもってまでイデオロギーの実践を試みたことは20世紀が生み出した財産だと思っている。自分がはずかしいと言っているのは、心底から本当に理解していないで、うわべだけに流されて信奉していたことであり、自分はまだ若かったんだなあと思う。
私は上谷博先生の講義が大好きで、先生が出講していた大阪外国語大学まで聴講するために、当時住んでいた吹田のアパートからよくバイクを飛ばして通ったものだ。それほどまで私のなかで彼の存在は大きかった。よい意味で、先生の巧みな話術にかなりマインドコントロールされていた。いつかは先生のようにうまく講義できるようになりたいと思ったものだ。卒論の内容には上谷先生から教わった物の考え方がかなり反映されていたと思う。これがやがて大学院でお世話になるリベラルで現実主義・実証主義の師匠、山岸義夫先生のゼミでも分別かまわず、私は同じ感じでやっていたので、みんなの前でお灸を据えられ(?)、大変はずかしい思いをしたことがある。愚かな私は、今風に言えば、KY(空気を読むこと)ができなかったのである(笑)。
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さて、大学卒業年次の4年生(関西の大学では4回生という。4年生という言い方は関東に出てくるまで知らなかった)、みんなは就職活動(今の学生はみんな就活というが)で忙しかったが、私は最初から大学院進学と決めていたのでまったく就活はしなかった。むしろ大学院の入試の準備で余念がなかった。一番手ごわかったのがフランス語である。現在、学生たちに、フランス語は、ポルトガル語、イタリア語、ルーマニア語と並んで、スペイン語と同じラテン語(俗ラテン語)派生の言語なので、よく似ているんですよ、なんて授業中に言っているが、もしそれが事実ならば、スペイン語の学生であった私がもっとフランス語が出来てもよかっただろう。当時、私はある国立大学の権威ある歴史学の教授の授業を聴講しており、その先生は私に対して大変親切であった。相談にもよく乗っていただいた。家まで呼んでいただいたこともあった。今思えばおそらく彼は私の指導を引き受ける意思があったと思う。だからこそ、いろいろなアドバイスをしてくれたはずだ。だだ自分が心配していたことは試験にスペイン語ではなく、フランス語があったことだった(英語のほかにもう一つ別の外国語の試験があったが、そのなかにスペイン語の選択肢はなかったのである)。私なりにフランス語学科の女子学生を個人教授にまでつけて(無論、バイト料を払ってである!)努力したが、どうにも歯が立たなかった。結局、先生は歓迎してくれていたのだが、門戸が開かれることはなかったのである。もう1年がんばってトライしてみてはどうかという先生の助言もあったが、悲しきかな、すべてはあとの祭りである。
さらに試練。人生の厳しさを知る。大学院では歴史学の専門課程に進学すべきだという上谷先生や立石博高先生のアドバイスもあって、どこに行こうかと考えていた。大体、当時西洋史研究室にスペイン史やラテンアメリカ史の研究者はおらず、専門が違っていても私は自分の研究を認めてくれそうな先生を探していた。
そこでいくつかの大学院の担当教授に電話をしたり、手紙を書いて、まずは打診した。狙っていた大学院が有名どころばかりだったので、競争率が高かったのか、芳しい返事はなかなかもらえなかった。中には、手紙を書いて返信用の切手を同封しているにもかかわらず返事すらくれなかった教授もいた。要するに、ダメですよ、期待しないでくださいね、ということだろうが、こちらはお願いする立場なので、念のため、厚かましいということは重々承知で恐る恐る直接電話でコンタクトをとると、さらに追い討ちをかけるように嫌味を言われる有様だった。それも一人や二人ではない。どうしてここまで言われなければならないのかと驚きだった。だから、自分は今の自分の学生たちにこれと同じことは決してできない。かりに否定的なことを言わないといけない場合でも、つねに言葉を選ぶように努めている。
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そうこう落ち込んでいるときに、幸運の転機が訪れた。金沢大学の山岸義夫先生から実に好意的なお手紙をもらったのである。先生には厚かましく自分の思いを10枚程度に綴って送っていたのだが、その返事として山岸先生から予期もしない同分量の長文の手紙をもらった。山岸先生はアメリカ史のご専門で、19世紀米国の領土拡張を研究テーマにされており、メキシコを視野に入れておられた。これが今日の私の研究テーマの一つとなっている。手紙には、試験に合格する秘訣や勉強のしかたなどが詳細に書かれてあった。今だから言えることだが、先生は私が入試で得点がちゃんと取れるようにと、無論事前に明されることは決してなかったが、蓋を開けると、試験問題には、明らかに私のために出題してくれたと思われる、「スペイン絶対王政について述べなさい」という、自分の得意分野の論述問題が含まれていた。これこそ、神の慈悲であり、「愛情」である!
実は、手紙のなかにはマイナス的なメッセージも含まれていた。それは、先生があと2年で退官であること、当時金沢大学には博士課程がなかったことだった。これは後になって本当は重要な情報だったということがわかるが、当時の私にはどうでもよかった。もうこの先生だと決めていたので、躊躇しなかった。入れてもらえるだけで嬉しかったのである。
山岸義夫先生は私のその後の人生を大きく飛躍させてくれた生涯の恩師で大師匠である。しかし、学問にはものすごく厳しい人で、論文がうまく書けない私はそのたびに叱られ、つらい思いをすることも多々あった。
修士論文も終盤にさしかかっていたある日、私はついにダウンして倒れた。病院にいくと、点滴をすぐに受けさせられた。そして、「栄養が足りません」と言われてしまった。そら、そうだろう!論文、論文、論文、の毎日で、どくに食事もせず、そりゃ貧血で倒れたりもするでしょう!当時は早くこの苦しみからなんとか解放されたい、という一心で、執筆し続けるしかなかった。先生を少し恨んだこともあった。どうして私をこれほどまでに苦しめるのかと。でも、そのときは若気の至りで全然理解できていなかったが、先生は本当に親身になって愛情をもって厳しく指導してくださっていたのである。だが、この感謝の気持ちを先生に直接お伝えしたのはかなりあとになってからだったと記憶している。
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さて、修論が書けずに一時期メキシコで逃亡生活?を送ったあと、無事、帰国して修論を提出し、修士課程を終えた。修了式で文学研究科の総代まで務めさせていただいたが、仕事がなかった(笑)。ここで、またしても社会の厳しさを味わうことになる。
博士課程へ進学しないと教授にはなれない、まで言われた。しかし経済的理由と親に心配かけてはいけないと思い、1年間予備校の専任講師をした末に、ラテンアメリカ研究では定評のある上智大学大学院の博士後期課程に進学した。
自分がそれまで研究していた19世紀をやることは認められたが、専門の指導者がいないので、問題がなかったわけではなかった。(実はあとになってわかるのだが、歴史の専門家は居たのである。あのかつてラジオ講座でレコンキスタを説明されていて私が感動していた小林一宏先生はメキシコ史にも造詣が深い先生だったのである!米墨戦争研究の大家で、個人的にもお付き合いのあるJosefina Zoraida Vazquez先生のもとで偶然にもかつて小林先生はメキシコで指導を受けていたということだ。)でもこれを承知で入れてもらったわけだから文句は言えない。しかも当時の私はほかに行き場がなかった。このときもいくつかの大学院の門戸を叩いたが、芳しい返事はもらえなかった。加茂雄三先生にはこのときいろいろ相談に乗っていただいた。金沢から先生が当時勤務されていた青山学院大学まで足を運んだこともあった。その点で、大学院の件で罵倒までした某教授とは雲泥の差であり、それは大学教授としての品位を疑うほどの対応であった。
だから上智大学のアンドラーデ教授が私を受け入れてくれなかったら、またこれも今日の私があったとは思えないのだ。本当に、アンドラーデ神父には救っていただいたと思っている。私がほぼ毎年クリスマスイブになると、大学の横の聖イグナチオ教会のミサに参加するのもそのような気持ちをいつまでも忘れないでおこうと思うからだ。
しかし入学してからまたしても違った試練がふりかかってきた。
博士課程では国際関係論専攻に入ったので、まわりは新しい時代のことばかりに興味のある学徒で、それまでの私の専門である歴史学は過去の遺物で、無用な学問とまで言う、同輩のS君などがいた。
しかし、ここでの経験は今日の私の研究や教育に役立っている。授業でラテンアメリカ論を専門の学生に教える機会があるが、ここで鍛えられた現代政治経済の知識が実に役に立っているのだ。
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自分が編者を務めた『アメリカのヒスパニック=ラティーノ社会を知るための55章』(明石書店、2005年)では現代のことも扱っているが、これが無事発行できたのも、アンドラーデ神父のご指導によるところが大きい。とくに米国とラテンアメリカ外交史や政軍関係についての学識は彼の指導のおかげである。
ところでその後天敵だったS君となぜか仲良くなり、むこうは国際政治理論が専門だったので、お互いに称え合った。あれだけ知識が豊富なS君、風の便りでは大学の職にはついていないようだ。何があったのかよくわからないが察しがつかないわけではない。この世界の厳しさを感じる。
この教授の道に成功した人そうでなかった人、これは業績だけで決まるものではない。私のように凡人であるものが学者になることができ(否、撤回!学者の卵である!)、東京の超有名私立K高校出身の旧友がこれにつけないという、きわめて不条理な学者社会・・・。
大学院博士課程卒業後、大学のスペイン語講師として東奔西走していた。月曜日と水曜日は東海大、木曜日から後半は関西へ遠征し、木曜朝は同志社大、夜は大阪経済大、金曜は京都外国大、土曜はまた同志社大で教えた。一週間に18〜20コマクラスを担当していたように思う。木曜の同志社大学の事務員さんは僕のために夜の授業までの仮眠のため、奥のソファを提供してくれた。3時のおやつもくれたかな?(お世話になりました)。こんな生活がまる2年続いた。節約して夜行急行列車でいったときはとくに冬場の夜中は足が冷えて寝られなかった。夜間部の大経大の授業終了後、毎週のように自分の仕事の帰りに私を車で迎えに来てくれたのは弟だった。同志社大学の田辺校舎は実家から不便なところにあるが、朝1限の授業に間に合うように車で送ってくれていたのは父親であった。このように家族の支えがなければ、果たして乗り越えることはできただろうかと思うと家族には未だに頭が上がらない。家族に感謝!そして人生に乾杯!そして…。
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